宇都宮白峰会の軌跡

栃木県山岳連盟50周年記念誌(1998年)に宇都 宮白峰会の紹介をいたしました。
当会の概要として、こちらに転載します。
記載内容は1998年(平成10年)当時のものです。
それ以降の活動状況はこちらへ。
   
1.創立年

1961年(昭和36年)
城山山岳会を宇都宮白峰会に改称。

2.歴代の代表者

渡辺 宏之(19611970年)
阿部 重男(19711974年)
桜井 忠光(19751981年)
舘野 秀夫(19821990年)
大垣 昇一(1991年〜)

3.会の特色

 オールラウンドな登山の実施、次の高みへの憧れを常に持ち続け、
幅広く、奥深い山登りを目標としている。

4.主な活動状況

 当会は社会人山岳会のため、仕事の関係上毎回山行日程の調整に苦
慮している。
 冬山合宿は、総合力の向上を目指し北アルプス(槍・穂高岳)及び
後立山方面の山行を主体に実施し、県境尾根ルートを目的に中三依よ
り荒海山〜安ケ森山(昭和46年12月〜47年1月)、皇海山〜白
根山(昭和49年12月〜50年1月)への縦走登山を行った。
 春山合宿は、残雪期のバリエーションルート登攀を目的に、白馬岳
東面、不帰I峰尾根、前穂高北尾根、硫黄尾根、戸隠山PI尾根、五
竜東面、剣岳への山行を行った。
 夏山合宿は、なるべく多くの会員が参加できるように定着方式をと
り、岩登り・縦走等が可能な穂高岳等への山行を中心に行っている。
その他、昭和55年から60年にかけて古賀志山の岩場ゲレンデから
一歩枠を広げると言う目的のもとに、足尾松木沢ウメコバ沢に新しい
対象を求め、各ルートへの登攀を実践してきた。
 海外登山については、昭和49年アラスカへの山行計画を企画し、
2年間の訓練計画を設け、昭和51年の夏に目標をおいてトレーニン
グを開始したが実現には至らなかった。
 その後、個人的にヒマラヤ登山に参加した会員を中心に、白峰会と
してヒマラヤ登山を実行しようという機運が生まれ、昭和62年の総
会において、冬季のアンナプルナ南峰遠征登山計画を決定し、山形隊
長、隊員は舘野、喜内、高橋、安田、菊池、水口、そして薄井の諸氏
が名乗りをあげた。4〜8月に登山計画書の作成及び登山許可申請の
手続き、その後食料、装備等隊荷の集結を行い、梱包作業を連日深夜
までこなし、11月18日に本隊が出発となった。12月1日に3,
700m地点にBCを設営し、南壁の偵察と荷揚げを開始したが、南
壁右氷河最上部より発生した大雪崩に、当初予定していたルート付近
も直撃を受けた。やむなく南西稜にルートを変更し登山活動を行った
が、12月21日に5,800m地点で力つき、断念となった。アン
ナプルナ南峰への登山は、準備段階より問題は山積みされて居たが、
会員全員の山への情熱と行動力とがあり、また、先輩諸兄、山仲間の
方々の協力により実現するところとなった。
 会員による海外登山については、昭和43年栃木岳連のボリビヤ・
アンデス親善登山隊に阿部、長谷川両氏が参加、サハマ・イリマニ等
に登頂。昭和50年に荒井氏が日本女子エベレスト登山隊に参加。同
年舘野氏がHAJ(日本ヒマラヤ協会)ガルワール登山隊に参加、リ
シパハール初登頂。昭和53年に山形氏がHAJインドヒマラヤ登山
隊に参加、ケダルナートドームに登頂。昭和58年に山形氏が婆娑羅
衆ガンゴトリキャンプに参加、サトパント登頂及びシブリン南壁中央
稜ルートを初登頂。昭和59年に菊地氏がHAJブータン・ジュチダ
ケ峰(東稜)登山隊に参加。昭和60年にHAJカラコラム未登峰ク
ラウン遠征隊に舘野氏が隊長、中野氏が隊員として参加、後半の悪天
候とアイスフォールの崩壊等により6,300m地点で登頂を断念し
た。昭和61年に大金氏がHAJ雪宝頂登山隊に参加し登頂。昭和6
2年に永尾氏がHAJゲニ登山隊に参加。
 平成2年にHAJクラウン峰登山隊に舘野氏が再度隊長として益子
氏とともに参加。この時、前回の経験を生かし、順調に進んでいた登
山活動のさなか、休養のためBCに下山中の舘野氏が、懸垂氷河の崩
壊に遭遇し遭難した。県内のヒマラヤ登山の第一人者でもあっただけ
に大変悔やまれるところとなった。平成7年栃木岳連ボゴタ峰登山隊
に山形氏が隊長、小林氏が隊員として参加した。
 さらなる高みへの夢を継続しつつあるといったところである。
                   (文責 大垣 昇一)
   

   
*宇都宮白峰会の前身である城山山岳会については、現時点では詳細不明である。創立は戦前
とも戦後とも言われており、慶応大学山岳部出身の渡辺氏が、娯楽の少なかった当時、城山地
区(古賀志山の山麓)の地域同好会的な山岳会として始めたと言われている。
 やがて時代は日本人による高所遠征の揺籃期となる。戦後まもなく日本から一般人のヒマラ
ヤやカラコラム地方への入山が困難だった時期があり、高所登山に挑む登山者たちは南米アン
デスの高峰を目指していた。城山山岳会も、このようなア ンデスでのより困難な登山に挑戦す
るため、地域同好会から本格的な山岳会へ方向転換していき、会名も白峰会と改称することに
なったようだ。この「白峰」は、日光白根山や那須岳を指すのではなく、南アルプスの白峰三
山(北岳〜間ノ岳〜農鳥岳)を指すらしい。ただし、白峰会という名称は全国の山岳会に見ら
れたため、宇都宮白峰会と称するようになったと言う。
                            (文責 梶谷 博)


栃木県山岳・スポーツクライミング連盟所属宇都宮白峰会
ホーム
お知らせ 会長挨拶 白峰会の歩み 山行記録 活動・組織 掲示板 問い合わせ リンク
   

inserted by FC2 system